2020年6月29日月曜日

元気をあげない

ここ数年で、すっかり定着した感のある「元気をもらった」という表現が大嫌いである。

スポーツ選手の活躍を見て、よく感想に使われたりする。

〇〇のシーンを見て元気が出たとはいうのはよろしい。元気をもらったとは言ってもらいたくない。

元気はあげたり、もらったりできないと思う。元気というのはその人の内面の現象だから。

それが許されるなら、そのうち元気を貸したとか借りたとかいいだしかねない。

背中を押さなくていい

ニュースなどの街頭インタビューで紹介される一般の人のコメントが気になる。

話し言葉である以上、多少の「てにをは」が合っていなかったり、文脈上、言葉を略したりしている。

画面に出る字幕などではちゃんと訂正されていたり、省略された言葉が補足されているときは許せる。

ところが、たまに間違いが見逃されてそのまま放送されてしまうことがある。

いま見たニュースでは、ある人が「私はこういう活動を通して頑張っている医療関係者の方々の背中を押したいと思っています」と胸を張っていた。

これは明らかに誤用である。

「背中を押す」という表現は、誰かが迷っているときに一歩踏み出すきっかけをつくってあげる。決断を促す。という意味である。

応援をするという意味はない。応援になってない。医療関係者は迷ってなんかいない。

こういった小さなことが積み重なって、日本語がどんどんズレていくのだ。

2020年6月19日金曜日

【300文字小説】

幻の味

 
深夜、繁華街をさまよっていた私たちは、かなり酔っぱらっていた。

「どこですか先輩、その伝説のラーメンってのは? もう眠いっすよ」

「この角を曲がった先だ。あ、あった、あった」

前回は長い行列であきらめた。特製スープの湯気が香る店内に入ると、お客さんはみな一心不乱に食べている。夢にまで見たラーメンだ。

やっと順番がきた。席に着いて注文する。

少し時間がかかりますよと言われた。

「すいません。ラーメンがきたら起こしてください」と、座った途端、後輩はつっぷして寝てしまった。しょうがないやつだな。

ようやくラーメンが運ばれてきた。私はワリバシを割ると、後輩に声をかけた。

「おい、起きろ!」

その声で起きたのは私だった。



(東京新聞:2015年1月25日 入選作品)

【300文字小説】

忘却


会社から駅までの途中にある本屋。今日は大好きな作家の新刊発売日。どれだけ待ち望んだことか。あったあった。

あれ? 並んで置かれているのは同じ作家でまだ読んでいない短編集のようだ。帯には「注意! 何もかも忘れてしまうほどの面白さ!」とある。これもあわせて買っておこう。

運良く席に座れた。さきに短編集のほうを開いてみる。新作は長編なので家についてから一気に読むのだ。

聞きなれない駅名。降りるはずの駅をとっくに過ぎてしまった。宣伝文句の通りじゃないか!

何駅か逆戻りして、ようやく家にたどりついた。

さて、お目当ての長編を読む前に、さっき読んだ短編集のほうは本棚にしまっておこう。

あれ、なんで同じ本がすでにあるんだ?
 
 

2020年6月9日火曜日

ゲルマニウムラジオ

錆びたカミソリの刃、電線、鉛筆の芯、安全ピン、木の板。

昔、塹壕の中で何もすることがなくて、ありあわせの材料でラジオを作った兵士がいた。

令和2年の春、何もすることがなくて約50年ぶりに電子工作を始めた暇人がいた。

基本のゲルマニウムラジオ。キットを数社からかき集める。

性能はピンキリ。要領がわかってくると必要な部材をバラで注文して製作。

ゲルマニウムラジオというものは一筋縄ではいかないところが魅力。

シンプルなのに奥が深い。

なぜラジオを何台も作るのかという質問は無視。

苦労に苦労を重ねて蚊の鳴くような音をキャッチ。

でも、昔作ったやつのほうが音が大きく、高音質。

それを超えるものを作らないと50年前の自分を超えられない。

いろいろ調べたら判明した。あるときからイヤホンの素材が変更されたのだ。

まったく色も形もそっくりなのに中身が違う。

ずるい。